どこがちょうど良いのだろう

私の育った日本はすでに民主主義の国で個人の自由が尊重される国と思ってきた。日本はずーっとそういう国だったと思って育ったけれど、自分の年齢が上がるにつれて子供の頃に教科書で習った戦争の歴史はさほど遠い昔の事でなく、明治維新も原爆の落された第二次大戦も何だかそう昔の事でなかったと思うようになった。日本も田舎と都会では西洋文化の入ってくるスピードが違うから、私はかなり昔の文化を残した土地で、そういう家で育ったと思うものの、それでも自分勝手に過ごしたと思う。親に対して「お金は出して欲しいけど口は出さないで」っていうような事をしてきた。自分が今、親の年齢になって思うのは、なんと想像力と思いやりに欠けた子供だったかと思う。これもこの年齢にならないと実感しない体の変化があればこその想像だったり、異文化の国に来てその価値観の違いの中で思う事だったりする。思ったところで今から何が変わるわけでもないけれど、親には本当に感謝している。

日本は民主主義や個人を尊重するって事をものすごく急速にやったのでその歪みが今の自殺者数に繋がっているという話をYouTube、養老チャンネルで聞いた。国内総生産値と自殺者数は比例するのだとか。キリスト教国では自殺は大罪だとあるのでそれがブレーキになるけれど、文化の違う日本にはそれがない。表面的な民主主義、個人主義が輸入されて「和をもって貴しとなす」という、個人よりその輪の中での協調、自分の役割の方が重視されるような社会から、急速に個人とか個性って言葉を引っ張り出したからっ問題が起こったと言ってたと思う。アメリカの大学生が日本へ留学して「日本の大学生が羨ましい」というような事を言っていた。アメリカでは大学生は親から離れて、自分のことは自分で責任を負って生きていくという時期なんだと思う。私も高校生になった時にもう義務教育は終わったんだから自分で責任が負えると思う事なら何でもすればいい、というような事を言われた事はあるけれど、私的には親が自分を守ってくれるという思い込みがあったと思う。盾があるのとないのでは、風当たりもストレスも全然違うだろう。

日本の和を以て貴しとなすも、責任の所在が曖昧で悪く使われる事もあるけど。ただこっちの方が歴史が長いわけで、そこから個性を持って自由に生きろって言われるのはちょっと過酷だと思う。だって社会にはまだ昔の名残もあるだろうし、その中で何ができても出来なくても、その評価や責任が全部自分って思ったら辛い。そんなこと言われなくても自分の面倒は自分で見なくちゃなんだから。

スイスもキリスト教国なのだろう、子供の頃から朝ごはんは何が食べたいか?と自分で決めることが求められるらしい。それを見た日本人が「だから自分がどうしたいかと言う決断力がつく」と言うのを聞いた時、複雑な気持ちがした。養老孟司が「なんでお茶にするか、コーヒーにするか、いちいち決めなくちゃなんないの、めんどくさい。どっちでもいーよ」と言うくだりもあったけど、アレルギーがあるならともかく、確かにアメリカのレストランの注文は面倒くさい。選択があるのは良いけれど、だったらもっと一人前の量と品数に気を遣ってくれたら良いのにと日本人の私は思う。日本の食事事情も今は西洋化されてるのなら同じような事ができるだろうけど、朝から僕はパン、私はご飯に味噌汁、なんて言われたら「自分でできるようになったら自分でやれ」って言いたくなるんじゃないかと思う。日本のお母さんは本当によく働いていると私は思うので、それが子供の決断力云々と言われたら嬉しくない。日本の食育はすごいと思っている。もちろん、一例として言っただけで、日本のお母さんの努力を非難してる訳でないとわかるんだけどね。

ともかく日本は「和を重んじて」大国と呼ばれる国になった。
これからの時代は何を大事にしていくんだろう、日本。キリスト教国では最後の審判で個人が裁かれるので、個人がとても大切なのだろうと言ってた。生きている時に自分が何をした、という事が言えないといけないから。日本は唯一なのかな、熱心な布教活動の中でもキリスト教の広まらなかった国らしいけど、日本文化は輸入でできてるって話も聞いた。最近は仏教学者さんの話なんかも聞いてる。なかなか面白い。でも右から左で全然頭に残らない。

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